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ロシア革命前後の時代のうねりの中で、医学を学び詩を愛した男の人生を2時間に凝縮したミュージカル宝塚星組公演『ドクトル・ジバゴ』が、専科の轟悠以下、星組の選抜メンバーにより赤坂のTBS赤坂ACTシアターで上演中だ(26日まで)。

原作となる「ドクトル・ジバゴ」はソ連の作家ボリス・パステルナークが1957年に発表した小説。ロシア革命前後の混乱に翻弄されながらも懸命に生きる主人公を描き、戦争、革命の中に於いても、人間は愛を失わないというテーマが高い評価を得て、名曲「ララのテーマ」がとりわけ有名な1965年デヴィッド・リーン監督による映画版をはじめ、幾たびかの映像化がなされている。また2015年にはブロードウェイミュージカルとしても上演されていて、今回は、原田諒がオリジナルの宝塚版として創作した作品となっている。

【STORY】
20世紀初頭のロシア。モスクワの街頭ではロマノフ王朝を倒し、新しい時代を求めようとする人々が生きる権利を主張し、「民衆にパンを!農民に土地を!」とシュプレヒコールをあげるデモが頻発。それを抑えようとする竜騎兵との衝突が続いていた。
幼い頃両親を亡くしたユーリ・ジバゴ(轟悠)は、叔父のアレクサンドル(輝咲玲央)に引き取られ、医学の道を志している。共に育ち心を寄せて来た従妹トーニャ(小桜ほのか)との結婚も決まり、確かな未来が待っているかに見えるユーリだったが、詩人としての才にも長けていた彼は、古き良きロシアの息吹を詩に綴る一方で、この国を支えているのは労働者であり、貴族が安逸を貪る時代が終わろうとしていることを悟っていた。
そんなユーリとトーニャの婚約披露パーティーの席上で、客の1人だった弁護士コマロフスキー(天寿光希)が、拳銃で撃たれる騒ぎが起こる。コマロフスキーを撃ったのは洋裁工房「アマリヤ」の娘ラーラ(有沙瞳)だった。彼女には帝政打倒の革命に情熱をもやす学生パーシャ(瀬央ゆりあ)という恋人がいたが、母アマリヤのパトロンであるコマロフスキーにそのことを知られ、母に告げると脅され執拗に関係を迫られていたのだ。だが、事を公にするのは得策ではないと判断したコマロフスキーは、ラーラを警察に引き渡すことはせず、パーシャと共にその場を引き取らせる。そんなコマロフスキーの手当てをしたユーリは、彼こそが父親の財産を騙し取り死に追いやった張本人だと気づく。それでもユーリは傷ついた人を助けるのが医師の使命であると、己を律してコマロフスキーの治療をした。
1914年、ロシアは第1次世界大戦に突入し、ユーリは自ら志願し、友人の医師ミハイル(天華えま)と共に、ウクライナの野戦病院で、多くの負傷兵の治療にあたっていた。そんな日々の中で、ユーリは従軍看護婦として働いていたラーラと再会する。コマロフスキーから逃れたラーラはパーシャと結婚し、別の村で新たな生活を始めていたが、コマロフスキーとラーラとの関係の疑念を拭い去れないパーシャは、彼女のもとを去り、入隊してしまったという。ラーラは行方のわからないパーシャを追って従軍看護婦に志願していたのだ。失意のラーラを温かく励ますユーリ。彼にもまたモスクワに残した妻トーニャがいたが、妻を思う気持ちの一方でユーリは、ラーラとの縁に運命的なものを感じていた。
そんな中、遂に皇帝が退位し、ロシア帝国は崩壊したとの報せが届く。祖国は社会主義国ソヴィエトへと変貌し、ユーリとラーラは互いに心を残しつつ、ウクライナを後にする。
家族の元に戻ったユーリが目にしたのは、変わり果てたモスクワの街だった。邸宅はソヴィエトの方針によって、人民の共同住宅となり、「アマリヤ」のお針子で、トーニャのドレスの仮縫いをしていたオリガ(紫りら)が、今や党の委員として邸宅を管理。特権階級だったトーニャへの憎しみから、度々食べ物を没収するなど厳しい処遇を強いていた。個人の権利を認めないモスクワで人間らしい暮らしを営むことはできない。国が生まれ変わるというのなら、新たな土地で新たな生き方を見つけよう。そう決意したユーリは、家族を連れ亡き母の残したユリャーチン郊外にあるワルイキノの別荘を目指し、汽車の旅に出る。
だがその旅の途中、スパイの疑いで赤軍派の将校に尋問されたユーリは、革命思想に反するものには血も涙もない粛清を行う、と恐れられている赤軍派の将軍ストレ二コフこそ、ラーラの夫パーシャだと知る。革命への狂信以外の何もない男に変貌しているパーシャを見て、ユーリはラーラの身の上を案じながらも、ワルイキノでの生活をはじめ、トーニャとの間には新しい命も宿っていた。ところがその束の間の穏やかな日々の中で、ユーリはまたも運命の人ラーラにめぐり合ってしまう。運命の歯車は再びユーリを大きなうねりの中へと押し出していき……

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人類史上初めて、社会主義の名のもとに新しい社会体制をつくり出したロシア革命は、私有財産制による社会の不平等を廃し、生産手段の共有と共同管理による平等な分配を目指して、ロシアに劇的な改革をもたらした。この社会主義社会の思想と運動を「人類史の大いなる進歩」と位置づけ、社会主義革命の輸出に力を注いだ、ソヴィエト連邦にとって、平等を目指した自国の社会に起こっている矛盾や、混乱を赤裸々に描き出した小説「ドクトル・ジバゴ」は、ロシア革命を批判する、革命が人類の進歩と幸福に必ずしも寄与しないことを証明しようとした無謀なものとして、激しい非難の対象となった。その為、作品はソヴィエト連邦で発表・出版することが許されず、密かに持ち出されたイタリアで刊行され、ようやく世界的に知られるところとなり、世界18ヶ国で出版。1958年にはノーベル文学賞が作者パステルナークに授与された。
だが、ソ連共産党がパステルナークをソ連の作家同盟から除名、更に国外追放もありうる、と宣告する等の手段で、受賞の辞退を強制。受賞すれば亡命は避けられない考えたパステルナークは「祖国を去ることは、死に値する」と受賞を辞退した。これは、政治的な理由でノーベル賞受賞の辞退を余儀なくされた初の例となったが、ノーベル委員会はこの辞退を認めず、パステルナーク不在のまま、予定通りノーベル文学賞を与え、これによってパステルナークは辞退扱いになるのを免れ、今も公式に受賞者として扱われている。
このパステルナーク同様に、音楽史にその名を残す著名な作曲家ラフマニノフも、亡命後のアメリカで作曲活動を行わない理由を問われ、「私はもう長いことロシアの大地を踏んでいない。ロシアの白樺も見ていない。リラの花の香りもかいでいない。このような状態でどうして筆を進められようか」と答えている。社会の形が根底から覆され、自由な発言も封じられた中で、更に極寒の厳しい風土を持つ北の大地を、彼らは何故そこまで愛し、慕うのか。その根本にある、祖国への迸る思いとこの作品とは、切っても切れない関係で結ばれている。そこには、厳しくも大きなロシアの大地への揺るぎない愛があり、社会の形がどんなものになろうと、この土地で生を受けた自分が、如何に人間らしく生きるか?という命題との闘いは、土地への愛、人への愛を失わないことだった。それだけが、彼らにとっての生きる尊厳であったに違いない。

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そんなあまりにも骨太な作品を宝塚歌劇で描き出すのは、非常に大きな困難を伴う。「死の後まで愛によりて結ばれん」を貫く純愛こそ至高としてきた宝塚の世界で、この作品のユーリが取る行動は、下手をすれば、単なる不実な浮気者とも取られかねないからだ。
けれどもそこに轟悠がいることによって、この大地と人への大いなる愛をまっとうする主人公の不器用な生きざまが、宝塚歌劇として成立する力となっている。時分の花を咲かせて、その花が最も美しい時にいさぎよく散ることを美学としている宝塚歌劇のトップスターの中で、現在唯一、宝塚の大地に深く根を下ろし、永遠の大木であり続ける道を選んだこの人だけが、ユーリ・ジバゴの人間愛を、その誇りを、あくまでも気高く表出することができる。轟とのタッグが3回目となる作・演出の原田諒が、それをきちんと見極め、轟悠主演という機会を待って『ドクトル・ジバゴ』に取り組んだのは、作家の優れた慧眼として評価できる。実際、原作があると言ってしまえばそれまでだが、大きく変転していく主人公の運命と、ロシアの広大な大地を、過度にならない映像を駆使しつつ、時には極めてアナログな転換も交えて見事に描いたのは、原田作品お馴染みの装置の松井るみの仕事にも力を得た、優れたものだった。これまでの作品群から、原田は2時間が割けるこうした別箱の仕事に、より成果を発揮するようだ。あとは、大劇場作品を手掛けた時、その足りない30分をどう咀嚼するかが、これからの原田の課題と言えるかも知れない。次作品にも期待したい。
また、玉麻尚一の音楽も、麻咲梨乃をはじめとした振付家陣の振付も、いきなりロシア民謡になる、いきなりコサックダンスになる、というベタな方法論には決して陥らずに、そのエッセンスを絶妙に加味しながらのオリジナルで、作品をしっかりと支えていて、轟悠主演作品のスタッフワークには、常に驚くべき力感がある。

そのスタッフ陣の本気を引き出す存在でもある轟悠が、ユーリ・ジバゴの生きざまを、つまりは『ドクトル・ジバゴ』という作品を、宝塚歌劇として成立させた様には、ただ感嘆するしかない。医学生としての登場時が、どこか頼りなげで、ふわふわとして見えるのは、轟がかつて任でない役柄をも懸命に演じていた若手時代を彷彿とさせて微笑ましいが、それもきちんと計算されていて、そこからユーリが芯を持った大人の男へと成長していく様を映し出して鮮やか。特に医師であり、詩人でもあるというユーリの純粋な魂が、永遠のタカラジェンヌであるこの人が持っているファンタジー性と上手くつながり、ラーラと迎えた朝の会話に迸る美しい色気には見惚れるばかり。雪原の幻、そしてラストシーンと、極めて宝塚らしい様式美と、作品の社会性を融合させた、轟悠がいなければ成立しない作品が、また1つ生まれたことは、この人が宝塚に存在し続ける意義を、改めて知らしめる場となった。

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その轟の運命の相手ラーラを演じた有沙瞳は、激動の時代の中流転していく女性の、芯の強さの中にある、はかなさ、脆さを美しく表出して、ユーリに別かち難い楔を残す女性であることに説得力を与えている。金髪のカツラも実によく似合い、持ち前の歌唱力だけでなく、激しい芝居にもわざとらしさを感じさせない演技力も深まり、星組に加入以来破竹の勢いで伸びている姿が眩しいほど。轟と対峙したことでまた得るものも更に大きかったことだろう。ますます注目していきたい。

パーシャの瀬央ゆりあは、本人の資質からくる温かい優しい男役としての持ち味を封印した、凄味ある演技で目を奪う。特にストレリ二コフとなってからの冷徹な鉄仮面ぶりに全く無理を感じさせず、堂々と轟に立ち向かったことはは、瀬央の確かな成長を感じさせた。絶命する場面の、宝塚の粋を超えていると思えるリアルな表現も果敢にこなし、劇団期待の95期生の中では遅咲きに属する人だが、一気に駆け上がって来ているのは頼もしい限りだ。

ユーリの妻トーニャの小桜ほのかは、夫の心にラーラがいることを感じながらも、夫への尊敬と愛を貫く役どころを健気に演じている。夫にしたためる手紙が、この女性もまた知性と教養を備えた人物なのだと感じさせ、その凛とした姿が美しい。出すぎず、引きすぎずの好演だった。また、ユーリの親友の医師ミハイルの天華えまは、意外に描き込まれていない役柄を、天華えまというスター個人の存在感で際立たせていて、それによって最後のナレーションが唐突にならなかったことを思うと、この人の躍進にも目覚ましいものがある。

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他にも、ユーリの養父アレクサンドルの輝咲玲央が、轟の養父にちゃんと見える佇まいを示したのはあっぱれだし、彼らの家に仕えるエゴローヴナの白妙なつの献身、革命を体現する存在であるオリガの紫りらの冷ややかさ、母である前に女であるラーラの母アマリヤの白鳥ゆりやの打算、ユーリを浚うパルチザンの首領リヴェーリィの朝水りょうの美貌を活かした怜悧、ユーリの運命を結果として狂わすヴドヴィチェンコの蒼舞咲歩の朴訥、ラーラの理解者ワーシャの天希ほまれの爽やかな二枚目としての資質など、登場人物も充実。原田の感性とはやや合わないのか『ベルリン、我が愛』に続いて役不足感が残るガリューリン少尉の麻央侑希も、少ない出番で押し出しの良い舞台ぶりを見せていて、捲土重来を信じたい。

その原田の感性にとびきり響くのだろう天寿光希が、ユーリとラーラの出会いとその後のすべてに関わるコマロフスキーを、心憎いほど自在に演じていて、轟に続く影のMVP的存在。低くつぶやくような発声ながら、全く聞き取れないことはないという、絶妙な台詞術に裏打ちされた立ち居振る舞いで、この人物の胡散臭さと、二人に立ちはだかる障害の大きさを表現していて、作中の役柄としても極めて大きな比重を支え切ったことは喝采に値する。『ベルリン、我が愛』でも、最も儲け役と言える役柄を引き当てていたが、こちらは単なる儲け役には留まらない難役であり、重要な役柄をこれだけ堂々と演じられると証明したのは、男役天寿光希にとって、重大なエポックメイキングとなることと思う。今後の活躍にも期待したい。

総じて、轟悠という大木を得て、星組メンバーが歯ごたえの大きな作品に立ち向かった力感が生きていて、この挑戦が組の財産ともなる成果を残すだろう作品となっている。

〈公演情報〉
宝塚歌劇星組公演
ミュージカル『ドクトル・ジバゴ』
〜ボリス・パステルナーク作「ドクトル・ジバゴ」より〜
脚本・演出◇原田諒
出演◇轟悠(専科)有沙瞳 ほか星組
●2/20〜26◎TBS赤坂ACTシアター
〈料金〉S席 7,800円 A席 5,000円 (全席指定・税込)
〈お問い合わせ〉宝塚歌劇インフォメーションセンター 0570-00-5100(10時〜18時)
〈公式ホームページ〉http://kageki.hankyu.co.jp/


【取材・文/橘涼香 撮影/岩村美佳】




帝劇ミュージカル『1789』
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